日語閱讀:友情について

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人生において友情ほど大切なものはなく、友人ほど尊くありがたいものはありません。このことをわたしは、おざなりな軽い気持ちでいっているのではないのです。軽い気持ちでいうなら、人生において戀愛ほど大切なものはないともいえるでしょうし、夫婦の愛ほど大切なものはないともいえるでしょうし、親子の情についても、あるいはまた仕事?勉強?健康等々、いろいろなものについて、人生においてこれほど大切なものはないといえるでしょう。これら一つ一つのものが、それぞれ人生において最も大切なものだということは、必ずしも間違っているわけではありませんが、十分に考えられた上での判斷だとは思えません。むろん、人生を形成しているさまざまな大切な要素を比較して、そのうちのどれがいちばん大切かといったことを議論しても、あまり意味のないことでしょう。どれもが大切なのです。にもかかわらずわたしたはは人生のさまざまな要素を考えた上で、友情ほど大切なものはない、といいたいのです。一つには、それがわたしの人生でのあまりにも確かな體験で、友人の存在を何よりもありがたいことと日ごろ思っているからですし、一つにはまた、理屈で考えてみても、友情は、あらゆる人間関係の中で最も恒常的なもの、永続的なものであり、戀人?夫婦?親子?兄弟姉妹、あるいは職場その他での交際といったいろいろの関係の中でも維持されるべき基本的なものだからです。
    わたしたちの人生は、結局のところさまざまな人間関係にほかなりませんが、いろいろな関係の中で、友情は特に人間的な関係です。家族のつながりや戀人総合の関係にもそれぞれ深いものがあるにしても、そういったものの中には、ある意味で動物的な要素、自然的?本能的な要素があります。これに反して友情は、人間特有の、人間でなければ持つことのできないものです。人間は社會的動物であるといわれますが、単に多數の者が集まって共同生活をすることが社會的であるとするならば、それは必ずしも人間特有のものではないでしょう。家族も社會も、それが人間を人間たらしめるものであるためには、友情を根底にしているものでなげればならないと思われます。戀人は戀人であって同時に友人である、夫婦は夫婦であって同時に友人である、親子兄弟は親子兄弟であって同時に友人である、こういった戀人?夫婦?親子兄弟こそ、理想的な戀人?夫婦?親子兄弟ではないでしょうか。
    友情がこのように人生において最も大切なものであり、すべての人間関係を成り立たせる基礎的なものであるのは、それが最も人間的な関係、本能的な欲望や打算的な利害に動かされることの最も少ない関係だからであり、心と心との親密な觸れ合い、言葉では言い表せない深い共感、他のものを目的にしない純粋な信頼の気持ちだからです。友人といっても、むろんいろいろの種類があり、親しさの程度もさまざまです。しかし、ここでわたしが述べているのは、本當の友達、真の友情で結ばれた親しい友達のことです。本當に理解し合うことのできる、信頼し含うことのできる友達、そういう友達をわたしたちは常に求めています。そういう友達はそうたくさん必要ではありませんし、また実際問題としてそうたくさんはできないでしょう。
    しかし、少數でもよい、一人でも二人でもよい、もしそういう友達を見いだすことができれば、それはわたしたちの人生のの寶、生きていく上での最も大きなカと喜びを與えてくれるにちがいありません。
    本當の友達は、多くの場合、若いときからの年來の友人、學校時代あるいは二十歳前後のいわゆる青春時代からの友人です。大人になってから、殊に三十歳を過ぎてから、心からの親友を見いだすことは、ないことはないでしょうが、なかなか困難なことです。わたしの場合でも、親友の大部分は學生時代からの友人です。だから學生時代に、あるいは二十歳前後の若いときによい友人を発見することは極めて大事なことですが、なぜ若いときの友人が一生の友人になることが多く、それに比べて大人になってからでは親友ができにくいか、このことを考えてみると、友情とは何かがかなりはっきりしてくると思います。
    その人の存在だけでこちらが慰められ勵まされるような友達、生涯続いて変わらない美しい友情、こういったものが若いときに作られることが多いということは、そういう若い時代には各自が素直に人生に直面しており、したがって素直な自己をさらけ出して生きているので、心と心が素直に觸れ合うことが多いからでしょう。言い換えれば、青春の時代にあっては、打算的?功利的な考えで人と交際することが、大人の社會に比べて少ないからでしょう。
    一口に友人といっても、その種類や程度はさまざまだと前に申しましたが、世間には単に利害関係だけで結ばれている友人関係や、利害関係だけでなくてもごく表面的な関係だけで交際している人を友人と呼んでいる場合が、たいへん多いのです。利害関係だけで結ばれているならば、その利害関係の変化によって、今まで親友のように交際していた人どうしがたちまちかたきのようになってしまうこともあるでしょう。それは決して友達とはいえません。また単に表面的なこと、例えばクラスが同じだとか、趣味が似ているとか、職場が一つだとかということで友人になっている場合があっても、それはそれでよいでしょうが、これだけでは生涯の友人にはなれません。なぜなら、本當の友情とは心と心の觸れ合いですから、表面的なことだけでは成立せず、互いの真実をぶつげ合う素直な気持ちが必要だからです。
    大人になってからは親友ができにくく、若いときにこそ真の友情を見つけることができるのは、自己の真実を*のままで示す素直な気持ちを若い人々は持っているのに、大人になるといろいろなカラが出來てしまって、自己を開き示すことが少なくなるからでしょう。ということは、友情の成立に必要なのは、必ずしも若さということではなくて、人生に対する真実な気持ちを開き示し、また、他人のそのような気持ちを受け入れる心の素直さです。言い換えれば、人生に対する真実な気持ち、自分自身に対する城実さ、これなくしては友情は得られず、逆にまた、これさえあれば若くても若くなくても真の友情を得ることができるにちがいありません。友情における相互の信頼というものは、人生に立ち向かうこの真実さを相互に認め合うことですから、性格や意見がどのように違っても、外的な環(huán)境がどのように違っても、そういった相違を超えて成立するものですし、これは相互の生き方の最も深いところでの信頼ですから、生涯変わることなく続くのです。
    こういう信頼は、當然、相手に対する尊敬を伴います。人生に対する真実真剣な態(tài)度ほど尊敬すべきものはないのですから、信頼が尊敬を生むのは當然です。信頼を持って人に接すれば、わたしたちはそこに自分の持っていないさまざまな長所を発見し、それを尊敬し、そこから學び、それによって勵まされます。逆にまた、そのような信頼を友人から寄せられるならば、それに勝る大きな慰めと勵ましはないでしょう。なぜなら、人生への真実という點での信頼は、心の最も深いところでの信頼であり、他の何ものによっても動かされることのないものだからです。人がなんといおうとも、世間がどんなに目分を誤解しようとも、友人だけは分かってくれていると思うことができるのは、なんというありがたいことでしょうか。(終)
    論友情
    人的一生中,再沒有比友情更重要、更寶貴和更難求的東西了。這并不是我隨便說出的冠冕堂皇的話,如果隨意說,那還有許多重要的東西。比如還可以說,人生中最重要的東西莫過于戀愛、最重要的莫過于夫妻間的愛,父子情、工作、學習、健康等等,許多都是人生中非常重要的東西。如果說每一個都同樣重要,未必不對,但這些都不是我們經認真思考后所下的判斷。當然,我們若再去討論比較構成人生的各種重要成份,并從其中選出一個最重要的來,也并無太大意義。因為哪一個都重要。雖說如此,我在認真思考人生的各種要素后還是想說:再沒有比友情更重要的了。理由有二,其一,這是我人生中非常切實的體會,因為我時常覺得朋友的存在對我十分地珍貴。其二,就是從道理上來說,友情是所有人際關系中最自然、是持久的感情。是包括戀人、夫婦、父子、兄弟姐妹、工作單位以及我們所交往的范圍在內的所有關系中應該維護的基本的感情。
    歸根到底,我們的人生就是各種人際關系,而友情則是其中最有人情味的關系。在維系家庭和戀人間的相互關系中,即使其中含有更深刻的東西,實際上在某種意義上也含有動物性的要素和自然的、本能性的要素。與其相反,友情則是人類特有的、非人類所不具備的感情。人們都說,人類是社會性的動物,如果單單把多個人集中起來共同生活稱為社會性的話,那未必人類所特有。無論家庭還是社會,為了使我們人類有別于其它動物,那就必須以友情為基礎。戀人同時也是友人,夫婦也是友人,父子兄弟姐妹當然也是友人。但這些戀人、夫婦、父子兄弟姐妹并未必就是我們理想中的、最重要的人。
    之所以說友情對人生這樣地重要,是能夠組成所有人際關系的基本感情。是因為它是最人類化的、是受動物的本能、欲望和私利等利害關系驅動最少的關系。它是心與心的親密接觸,是不能用語言表達的共同感覺,是不以其它為目的純粹的信賴感。當然,即使稱為友人,也有各種類型,親密程度當然也有差別。但是,我在這里所談到的是真正的朋友,是以真摯的友情聯結的親密朋友。真正能夠互相理解、互相信賴的朋友,我們一直在尋找的那類朋友。這類朋友并不需要很多,實際上也不可能有太多。但是,少也沒關系,一個、兩個也可以。如果能找到這樣的朋友,那將是我們人生中的財富,他一定會給我們生活帶來力量與喜悅。
    真正的朋友,多是青年時代就開始交往的、多年的友人,也就是學生時代或20歲上下的所謂青年時代的友人。成人以后,特別是過了30歲以后,找到內心相通的知心朋友,即使可能也是相當地困難。就像我吧,大部分知心朋友都是學生時代的友人。所以在學生時代或者說20歲上下的青年時代能找到知心朋友是極其重要的。那么,為什么年青時的朋友大多容易成為終生的朋友。而長大以后的朋友就難了呢?如果我們能仔細琢磨一下這個問題,我們就可以弄清楚友情到底是什么。
    只要他存在,我就覺得一種寬慰與鼓勵。這類朋友,擁有終生不渝的最美好的友情,這種感情大多是在青年時代才能形成。原因大概就是在青年時代,各自都能坦誠地直面人生,相應地,每個人都以真實的自我生活著,所以心與心的真誠接觸就會多一些。換句話說,與成人社會相比,在青年時代所遇到的、以自私、功利的思想與人交往的人要少許多。
    如果用一句話概括朋友,就像前面說的,其種類與程度有許多,但是在這個世界上,我們多把以利害關系聯結起來的友人關系和即使不以利害關系聯結,而只以極其表面化的關系交往的人稱為朋友。如果只以利害關系聯結的話,那么過去曾象朋友一樣交往的人,因利害關系的變化有時立即會變成你的對頭。實際上這絕不能稱為朋友,另外,只是表面上的,例如因班級相同,趣味相似,同一單位等而成為朋友的,這當然很好,但只有這些還不能成為終生的朋友。為什么呢?由于真正的友情是心與心的接觸,所以只以表面現象為基礎是不能成為朋友的,而需要互相拿出真實與坦率的自我來碰撞。
    成人以后,難以找到知已,而年青時容易找到純真的友情,這是因為,年青人更愿意坦誠地把真實的自我*露在他人的面前,而成人以后,就會有各種虛偽,很少能自己打開心扉。這樣說來,友情所需要的不一定是年青,而是自己面對人生的真情實感,還有就是接受對方這類情感的坦誠度。換句話說,如果沒有面對人生的真情實感,面對自己的誠實程度,你將不能獲得友情,反之,如果有了這些,則無論你年青與否,一定能夠獲得真正的友情。友情所維系的相互信賴關系是因為相互承認對方面對人生的真情實感。所以無論雙方性格與意見有多大的不同、周邊環(huán)境有多大的差別,友情都會超越這些差別而形成。并且,由于這是出自雙方心靈深處的信賴,所以可以持續(xù)終生。
    當然,這種信賴還包含了對對方的尊敬,因為再沒有比以真誠的態(tài)度面對人生更值得尊敬的了。所以,由信賴升華為尊敬是當然的。如果以信賴的態(tài)度與人交往,那我們就會發(fā)現對方擁有許多我們所不具備的優(yōu)點,從而去尊敬它,學習它,并受其激勵。相反如果這種信賴被友人搶走,那么你就不會獲得勝過他的安慰與鼓勵了。這是因為基于坦城面對人生所形成的信賴感,是來自心靈最深處的信賴感,這種信賴感不受其它任何東西所驅使。無論他人怎么說,無論世界如何誤解自己,只要能感到友人的理解,那就是的幸福?。ㄍ辏?BR>